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#30 4月8日

「ビーフリート点滴静注用」というラベルが貼られたビニール製の袋から少し黄色がかった液体が一滴ずつ、下にポツリ、ポツリとたれ落ちる。その液体はプラスチック製の透明な管を通り、智美の左手に刺さっている針を通りぬけ、智美の体内へと入っていく。
それは、今の智美にとって、生きてゆくために必要なこと。

病院食はまずかった。だが、食べなければいけないと強引に口の中に放り込んだのが3月29日。無理をして食べたのがいけなかったのか、智美はすべてを吐き出した。

それからというもの、智美は食べては吐き、食べては吐きを繰り返すようになってしまった。
吐き癖がついてしまったのだ。根本的な原因は精神的なモノだいう事は智美自身分かっていたが、どうすることもできなかった。
口に食べ物を入れた瞬間、喉の奥から何かが駆け上がってくる。必死にその衝動を抑え、口の中の食べ物を胃に送り込んだとしても、食後、気持ち悪くなり自分の個室にあるトイレへ駆け込み、吐き出す。

看護士は気付いていなかった。食後、智身の個室へ皿の乗ったトレイを回収しに向かう時、皿の上にはほとんど食べ残しがないからだ。「この人はちゃんと食事を取っている」と信じて疑わなかった。

退院を数日後に控え、「このまま退院して、あたし平気かな」と少し思ったが、「そんな事どうでもいいか」と智美は考えていた。

未だ、直哉は意識が戻らない。

「ギブスのまま歩くのは危険だから」と、看護士は智美に「この病棟のこの階からは出ないように」と言っていた。だが、それは嘘だ。本当ならすぐにでも松葉杖を使っての歩行訓練をしたほうがよいのだが、もし「自由に外を歩いて、歩く練習をしてね」とでも言えば、間違いなく智美は隣の中央病棟にいる直哉に会いに行く。今、智美には直哉に会いに行かせるのは良くない、それが看護士たちの共通の意見だった。

「もし、直哉に何かがあれば、すぐに報告する」という看護士と智美の約束があるが、入院以来、看護士は何一つ直哉について言ってこない。それは、未だに直哉の病状が変わらない事を意味する。

一度、智美は直哉に会うために外科病棟から抜け出そうとしたが、そのためにはナースセンターの前をどうしても通り抜けなければならなかった。エレベーターはナースセンターの目の前にあったからだ。上手く身を隠しながら通り抜けようとしたが、あっさり、智美はそこで看護士に取り押さえられた。

入院以来、智美は直哉と会っていない。


家族や親戚、友達など、毎日のように智美のもとには見舞い客が訪れた。彼らは智美に少しでも元気になって欲しいとできる限り明るく、優しく振舞い、そして、智美もそれに応えるように明るく振舞った。
だが、彼らは気付いていた。実は智美の心は悲しみで溢れていて、いつも見せるこの智美の明るさは、精一杯の強がりだということを。

見舞いに訪れた智美の友達の中には、家族により智美が歌手になることが決まっていたと知った友達もいたが、その話題を智美の前で話す人はいなかった。
それと同じで、智美が友達の前で「あたし、実は歌手になるんだ!」と言うこともなかった。
今の智美にとって、唄うなんて事はできない。
このまま直哉は目覚めることはないんじゃないかと考えると、歌手になる気などなくなってくる。

直哉がいない世界で唄ったとしても、むなしさがつのるだけ、そう智美は思っていた。



4月8日 PM2:26
智美は窓から外を眺めていた。

今日は土曜日。天気も良く、病院の玄関付近には多くの人が行き交っていた。
見舞い客、検診に来た人、外で散歩をしている人、車椅子に乗っている人、松葉杖をして歩いている人、たくさんの人が様々な目的のために、今、この病院にいる。
一人一人の顔を見て、今この人はどんな目的があって生きているのだろう、などと考えてみる。

病院の中庭では、病院着を着た小さな少年と父親らしき人が、キャッチボールをしていた。
少年は力いっぱい父親に向かってボールを投げたが、そのボールは父親を大きく逸れ、明後日の方角へと飛んでいき、父親はそのボールを取るために走った。だが、二人の顔は満面の笑顔で、とても楽しそうだった。

…あの子がどんな理由で今この病院にいるのか知らないけど、…あたしとどっちが悲しい思いをしてるのかな……なーんてね。そんな事考えたらダメだよね…。

トン トンッ
誰かがドアをノックした。この時間は普段、看護士は来ないから、誰かが来たのかな?と智美は思った。
「はい、どーぞー」

ガララララララ…

「清田さん」
「えぇ!?い、あれ?石川さん!??」
智美のもとに訪れたのは、智美のプロデューサーになる予定の石川だ。
智美は彼がここに現れたことに非常に驚いた。

「あれ!?石川さん、確か、カナダに行っていたはずじゃ……」

彼は、エイヘックスの上司である若松と共にカナダへ長期出張中のはずだった。帰国するのは5月上旬だと、智美がテストを受けた時に彼は言っていた。今日はまだ4月8日だ。

「うん、向こうに着いてすぐに日本から清田さんが交通事故に遭ったって連絡を受けてさ、本当ならすぐにでも日本に引き返したかったんだけど、どうしてもやらなきゃいけない仕事があってね。それで昨日ようやくカタがついたからさ、若松さんの許可をもらって、今日帰ってきたんだ」
石川はそう言うと、持っていた大きなボストンバッグを床に置き、智美のベッドの横にある椅子に座った。
ただの見舞いにならこんなに大きなボストンバッグを持ってくるはずがない。どうやら彼は成田空港から直接ここに来たようだ。

「すぐ本社の方に行かなきゃいけないから、あんまり時間はないんだけど、心配だったからさ」
「あ…本当、心配をお掛けして…すみませんでした」
「いやいや、何言ってんの。清田さんが謝ることじゃないよ」
石川は微笑みながらそう言うと、ボストンバッグのファスナーを開け、ごぞごぞと何かを探し始めた。
「えーとね、手ぶらで来るのも悪いと思ったからね……あ、あった」
石川はボストンバッグの中から、おいしそうなクッキーの絵が描かれた箱を三つ取り出した。
「これね、カナダのメープルクッキーってヤツなんだけど、中々おいしいからさ。家族とか友達とかで分けて」
「…あ、そんな…すみません。ありがとうございます」

智美にクッキーの箱を手渡すと、石川は部屋の中をキョロキョロと見回し、何かを探し始めた。
「? 石川さんどうしたんですか?」
「んー、いや、まだ来てないのかな?あの人は」
「え?あの人?誰のことですか?」
「うん、ちょっとね。…やっぱ忙しいのかなぁあの人…それよりもさ、体のほうはどう?まだ痛む?」
「…あー、いえ、もう痛みはあまり感じないです。それよりもギブスの中がかゆくてかゆくて」
「あ、そうなの?じゃあ、かいてあげようか?」
「…えぇ!?ちょ…そんな…遠慮しときます!」
「ふふ!ゴメンゴメン嘘だよ」
智美は少し微笑んだ。その笑顔を見て、ほんの少しだけ石川は安心した。






「それじゃあ、今日はこれで東京に帰ります」
石川はそう言うと、椅子から立ち上がり、ネクタイをキュっと締めなおした。
「あ、本当に来てくれてありがとうございました。カナダからわざわざ…」
「またまたそんな…ほんと気にしないで。…………清田さん」
「はい?」
「…何があったのか…だいたいの事情は知ってます。………今は…まだ歌手になる事は考えなくていいから…その……唄いたくなったら、その時はいつでも、私に連絡を下さい」
優しく、智美を労るように、石川は言った。

「…………はい…」
本当は、もっと礼を交えた言葉をはっきり言わなきゃいけないと心の中では思っていたのだが、それ以上、智美は言葉が出てこなかった。
なんと言えばいいのか、よく分からなかった。

「それじゃあ、時間が出来次第、また来ます。…清田さん、ゆっくり休んでね」
「………はい。…ありがとうございます」

石川はボストンバッグを肩に担ぎ、静かにドアを閉めた。
彼の足音がゆっくりと遠のいていくのが聞こえる。

ゆっくり休んで…………か…みんなそう言うんだね……まぁ、それしか言えないか…

しーんと静まり返った病室に、智美以外誰もいないはずなのに、見えない誰かに心臓をギュっと握られているようで、苦しい。
そして、その見えない誰かが、すごい憎い。
いくら、「あたしの前から消えろ消えろ」と心の中で叫んでも、離れるどころか時間が過ぎるごとにそれは自分の中でどんどんと存在感を増してゆく。
苦しい。


トン トンッ

また誰かがドアをノックした。まだ石川さんが帰ってから5分も経っていない。忘れ物でもして戻ってきたのだろうか。
「はい。どーぞ」

ガララララララーー

「!!」

思わぬ見舞い客の来訪に、智美は言葉を失った。

今日という日はあたしにとって、きっと忘れられない一日になる、そんな予感がした。

Comments:4

URL 2008-05-22 (木) 21:21

失いそうになって初めて分かるものがあり^^
智ちゃんの歌(魂)がどれだけ直哉に支えられてたが痛いほど伝わってきて(涙)・・これから先、智ちゃんは?
そして直哉は何処を彷徨っているのか・・拝読させて頂きありがとうです^^続きを楽しみにしておりますっww

藍色イチゴ URL 2008-05-22 (木) 23:28

一体誰か来たのでしょうか?
常日頃一緒にいるもの、もしくはあるものがなくなった時、初めてその大切さが分かるんですよね。
それが恋人とか両親とかなら、尚更辛いですね。
智美さんはこれから先、歌手として歌えられるか。
そして直哉君の状態は。
そーいうのを気にしながら、続きを楽しみに待っていますね。
それでは、また。

アルマーク URL 2008-05-23 (金) 22:01

奏さん、こんばんは!
コメントありがとうございます!

失ってから初めてその大切さに気付くことって多いですよね。結局、取り戻せなくて後悔する。つらいですよね。

ありがとうだなんてそんな!読んでいただいてこちらがありがとうです!

これからもヨロシクお願いします!

アルマーク URL 2008-05-23 (金) 22:08

藍色イチゴさん、こんばんは!
コメントありがとうございます!

失わないと大切さが分からないモノってありますよね。自分も一人暮らしをして初めて親のありがたみってのを本当に理解しました。親は偉大ですよね。
さぁ果たして誰が来たのか?
あと智美と直哉の今後はどうなるのか?

これからもヨロシクお願いします!

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